2010年10月08日

ノーベル化学賞 根岸さんうっすら涙 「来るものが来た」

ノーベル化学賞 根岸さんうっすら涙 「来るものが来た」毎日新聞 10月7日(木)12時10分配信

受賞の喜びを語る根岸英一特別教授=米パデュー大学で2010年10月7日、

 【ウェストラファイエット(インディアナ州)山科武司】「50年間の夢がかないました」。米パデュー大の根岸英一特別教授(75)はこの日も学生たちへの講義を行ったが、その後の会見ではノーベル賞受賞の喜びを隠さなかった。かつて機械いじりが好きだった少年が、好きなことを続けた末につかんだ栄光。会見の最後には、うっすらと目がうるんだ。

 6日午前5時(日本時間6日午後6時)過ぎ、根岸さんの枕元の電話が鳴った。寝ぼけた頭にスウェーデンなまりの英語が飛び込んできた。「ああ、来たな。ついに来るものが来た」という感じで、比較的落ち着いていたという。

 電話の相手は次々と代わり、2人目か3人目にストックホルム大学の同分野の研究者、バックバル教授から「おめでとう」と言われた。ライバルからの祝福に「間違いなく、本当なんだ」と実感がこみ上げてきた。

 予兆はあった。最近、周辺から自身の履歴に関する問い合わせが続き、その一人は「ノーベル賞委員会」の名前を漏らしていた。「何となく、絞られてきたのかな」と感じていたから、全くの驚きではなかったという。

 妻とも前夜、「100分の1ぐらいの確率でもらえるかもね。ミラクルは起きるかもしれないけど、起きないのが当たり前と思わないといけないよ」と話しあっていた。

 とはいえ、自らの業績からすれば「受賞してもおかしくない」との自負はあった。「なんとなく今年ひょっとして、という気にはなっていた」という。

 父親の仕事の関係で旧満州(現在の中国東北部)で生まれ、戦後、山口県岩国市に引き揚げた後、神奈川県に転居した。幼いころから機械いじりが好きな少年で、当時電気街があった東京・神田に通ったという。

 神奈川県立湘南高1年生の時には、「理工系。ただし非生物系で」と決めていた。その言葉通り東大工学部に進んだ。幼いころから好きだった電気工学への道も考えたが、先輩から「電気会社はけちだよ」と告げられた。既に結婚を考えていたこともあり、当時花形だった有機高分子化学の道を選んだという。

 いったん就職したがフルブライト奨学生として渡米してペンシルベニア大で博士号を取得。日本の大学で研究を続けようとしたが、助手、助教授、教授が密接にチームを組む日本の大学システムでは、よそ者が入り込む余地はなかった。「日本(の大学)に戻る道は閉ざされていた」(根岸さん)から再び渡米したのだが、日本では「頭脳流出」と再三言われたという。

 ペンシルベニア大でノーベル賞受賞者の恩師、ブラウン教授と出会って道が決まった。後に同教授からパデュー大に招かれ、後任の教授ポストに就任した。

 01年か02年ごろ、ブラウン教授から「君と鈴木(章・北海道大学名誉教授)をノーベル賞に推薦しておいたから」と打ち明けられた。そのころはまだ夢のようだった受賞が、現実のものとなった。

 「これからの(妻と)2人の人生は大きく変わります。妻に『今まで多くの賞をもらったが、ノーベル賞は1000倍の価値があるよ』と言いました」。そう言って根岸さんは笑顔になった。

 ◇パデュー大 工学の評価高く

 パデュー大は1869年創立。ミシガン湖に接した米中西部の米インディアナ州にある。200以上の専攻、70以上の修士・博士課程があり、工学などでの評価が高く、大学独自の空港も所有している。卒業生に、人類初の月面歩行をしたアポロ11号のアームストロング船長ら宇宙飛行士がいる。鈴木、根岸両氏を指導したハーバート・ブラウン博士(故人)らノーベル賞受賞者も輩出している。創立時に寄付をしたジョン・パデュー氏の名前から命名された。


タグ:根岸英一
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ノーベル化学賞・鈴木章さん一問一答

ノーベル化学賞・鈴木章さん一問一答産経新聞 10月6日(水)23時15分配信


ノーベル化学賞を受賞した北海道大学・鈴木章名誉教授 6日札幌市・北海道大学

 ノーベル化学賞に輝いた鈴木章さんが6日夜、臨んだ記者会見での主なやり取りは以下の通り。

 −−受賞の報はいつ

 「午後6時20分くらいに電話があり、ワイフが出たら英語で何か言ってすぐに切れた。外国からも電話が来ることはあるが、今日の時期だから、アンビリーバブルなことが起こったのかもしれないよ、とワイフに言っていたら、6時25分ごろにまた電話があり、ノーベル委員会の人が『おめでたい話をしたい』ということでした。そのような名誉ある賞をいただいて非常にうれしいと話しました」

 −−同時受賞の根岸(英一)さんについては

 「私がブラウン先生のところにいたのは1963〜65年で、根岸さんは恐らく67年か68年にブラウン先生のところにいたと思う。だからそのときはお会いしていないが、その後、パデュー大学に10回以上は行っていて、そのときに根岸さんがいました。根岸さんはその後、シラキュースの大学にいたときがあり、泊めてもらったことがあります」 −−スズキカップリングが社会に還元されていることについて

 「大学の先生はみなさん社会に貢献する仕事をしたいと思っているが、なかなか思うようにはできない。その点、私の場合はラッキーでした。最初に発表した1979年のころは、そんなに役に立つとは思っていなかった。役に立ったのはラッキーです」

 −−研究する上での信条は

 「ブラウン先生がよく話していたのが、教科書に載るような研究をしなさいということ。私もそれを肝に銘じて、学生の諸君にも教科書に載るような研究をしようと言っている。もう一つ学生に言っていたのは、重箱の隅をほじくるような研究だけはするなということ。誰もやっていない新しい研究をしようと言っていた」

 −−北海道大学で研究を続けてきたことについて

 「私は北大で教育を受けて、北大で職を得て、40年北大でお世話になったわけですが、北大で勉強できてよかったと思っています。東京や大阪の大学からも来てほしいという話はあったが、大都会は好きではない。今も札幌は郊外に行くと森もあり川もあり、いいところです。研究するにも静かな環境で勉強するのはいいと思う」

 −−以前、セレンディピティについて語っているが

 「セレンディピティとは研究上、運に恵まれるかどうかということで、幸運に巡り会う機会はあっても、それを生かすかどうか、その対応の仕方が肝心。新しいものを見つけようとする気持ち、見つけるための努力が大事で、それを持っているかどうかで、セレンディピティを生かすかどうかは変わってくる」

 −−受賞について奥さんは

 「最初に電話を取ったのはワイフでしたが、喜んだかどうか。『アンビリーバブルなことが起こったのかな』と言ったら、『そんなことないでしょ』って言ってましたが」
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根岸・鈴木氏、特許取得せず…栄誉の道開く一因

根岸・鈴木氏、特許取得せず…栄誉の道開く一因読売新聞 10月7日(木)12時46分配信

 今年のノーベル化学賞に決まった根岸英一・米パデュー大学特別教授(75)と鈴木章・北海道大学名誉教授(80)は、パデュー大の故ハーバート・ブラウン博士の下で学んだ同窓生だが、2人とも、受賞対象となった技術について特許を取得しなかったという点でも共通している。

 経済的なメリットは逃したかもしれないが、特許を取らなかったことで技術は世界へ広く普及し、研究者最高の栄誉へと道を開く一因にもなった。

 根岸氏は6日、受賞者発表会場のストックホルムからの電話インタビューで、クロスカップリングについては特許を取得しなかったと明かした。根岸氏は「特許を取得しなければ、我々の成果を誰でも気軽に使えるからと考え、半ば意識的にした」と述べた。 最終更新:10月7日(木)12時46分

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2008年10月08日

<ノーベル化学賞>下村脩・米ボストン大名誉教授ら3博士に

<ノーベル化学賞>下村脩・米ボストン大名誉教授ら3博士に
10月8日18時56分配信 毎日新聞

ノーベル化学賞の受賞が決まった下村脩さん

 スウェーデン王立科学アカデミーは8日、08年のノーベル化学賞を下村脩・米ボストン大名誉教授(80)ら3博士に授与すると発表した。

受賞理由は「緑色蛍光たんぱく質(GFP)の発見と発光機構の解明」。

下村氏らが見つけたGFPとその遺伝子によって、たんぱく質を蛍光標識し、脳の神経細胞の発達過程や、がん細胞が広がる過程などを生きた細胞で観察できるようになった。分子生物学や生命科学の発展に大きく貢献したことが高く評価された。

 日本人のノーベル賞受賞は7日の物理学賞3人に続いて16人目。化学賞は福井謙一氏(故人)、白川英樹氏、野依良治氏、田中耕一氏に続き5人目。年間の受賞者数も過去最多の4人となった。

 授賞式は12月10日にストックホルムで開かれ、下村氏ら3人に賞金1000万クローナ(約1億4000万円)が3分の1ずつ贈られる。

 下村氏は、1962年にオワンクラゲから緑色蛍光たんぱく質(GFP)を初めて発見した。さらに分離・精製にも成功した。このGFPは、紫外線を当てると発光する。その後、92年に別の研究チームがGFPの遺伝子を特定し、複製に成功。さらに別のチームが、異種の細胞内にGFPを導入し、発色させることに成功した。

 GFPの発見以前は、たんぱく質を蛍光標識する際、たんぱく質を一度精製した上で蛍光物質を付け、蛍光標識したたんぱく質を生きた細胞内に注入するなど、煩雑な作業が必要だった。GFPは、他のたんぱく質の遺伝子に融合させ、細胞内に入れるだけで、細胞内の好きな場所で蛍光を作り出せる。そのため、目的の遺伝子が生きた細胞内のどの場所で働いているか調べられるようになり、これによって分子生物学や生命科学などの研究が大きく進展するようになった。

物理学賞:益川教授ら日本人3氏に授与

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物理学賞:益川教授ら日本人3氏に授与

物理学賞:益川教授ら日本人3氏に授与
ノーベル物理学賞の受賞が決まった京都産業大理学部の益川敏英教授、高エネルギー加速器研究機構(高エネ研)の小林誠名誉教授、南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授 

スウェーデン王立科学アカデミーは7日、08年のノーベル物理学賞を、米シカゴ大の南部陽一郎名誉教授(87)=米国籍▽高エネルギー加速器研究機構(高エネ研)の小林誠名誉教授(64)▽京都産業大理学部の益川敏英教授(68)の日本人3人に授与すると発表した。

素粒子の理論で先駆的な役割を果たしたことが評価された。

日本人のノーベル賞受賞は、02年の小柴昌俊・東京大特別栄誉教授(物理学賞)、田中耕一・島津製作所フェロー(化学賞)以来6年ぶりで、3氏を含め受賞者は計15人。物理学賞に限ると小柴氏に続き計7人となった。

 南部氏の受賞理由は、物質の最小単位である素粒子の「自発的対称性の破れの発見」。小林、益川両氏は「CP対称性の破れの起源発見」。素粒子の世界に存在する「破れ」と呼ばれる非対称性の理論化に取り組んだ3氏の業績は、理論物理学の発展に大きく貢献、初めての日本人3人同時受賞につながった。

 左右対称の図形は、左右を入れ替えても形が同じ。物理法則でも、一つの状態をほかの状態に変えても不変であるとされる。しかし、超電導現象などでは、対称性が失われることがある。

 南部氏は60年代にこの「対称性の破れ」を初めて素粒子の世界に導入した。これにより、物質の質量の存在が合理的に説明できるようになり、素粒子の基本理論となっている「標準理論」の基礎となった。

 一方、粒子と反粒子(質量が粒子と同じで電荷が反対)の数が全く同じだと、この世界は光だけになる。このため、小林、益川両氏は粒子と反粒子の性質にあるわずかな違いを示す「CP対称性の破れ」を理論的に説明するため、当時3種類しか存在が確認されていなかった素粒子クォークが3世代6種類以上あることが必要だとする「6元クォーク模型」を考案。両氏の名字をアルファベット順に並べて「小林・益川理論」と呼ばれた。

 小林・益川理論は当時の理論物理学の常識を覆す理論だったが、その予言通り、77年までに4、5番目のクォークの存在が実証され、95年には6番目のトップクォークの存在が確定、理論の正しさが証明された。

 南部さんは戦後まもなく渡米した頭脳流出組で、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎の両氏(いずれも故人)に続く日本の素粒子論研究者の第2世代。益川、小林両氏は名古屋大理学部の先輩、後輩で、湯川博士の協力研究者だった故坂田昌一博士門下で素粒子論を学んだ。

 授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれ、賞金1000万スウェーデン・クローナ(約1億4000万円)は南部氏に半分、残りの半分を小林、益川両氏に贈る。

ノーベル物理学賞:南部、益川、小林3氏の略歴 ノーベル物理学賞の3氏略歴

 南部陽一郎氏(なんぶ・よういちろう) 1921年東京都出身。旧制第一高に学び、42年に東京帝国大(現東京大)理学部物理学科を卒業。同大学の研究員、助手を経て49年に大阪市立大助教授、50年には29歳で同大教授に就任した。

 52年、朝永振一郎氏(故人、65年ノーベル物理学賞)の推薦で米プリンストン高等研究所に留学した。56年にシカゴ大助教授、58年同大教授。70年に米国籍を取得した。91年からシカゴ大名誉教授。大阪市立大名誉教授でもある。

 78年に文化勲章を受章。82年には米科学界最高の栄誉といわれる国家科学メダルを受賞。94年にはノーベル賞に次ぐ国際的な賞といわれるイスラエルのウォルフ賞、05年5月には米国のベンジャミン・フランクリンメダルも受けた。

 益川敏英氏(ますかわ・としひで) 1940年、名古屋市生まれ。同市立向陽高から名古屋大理学部に進学。湯川秀樹の中間子論を発展させた坂田昌一博士(故人)のもとで素粒子論を学んだ。67年同大助手、70年京大理学部助手。80年、京大基礎物理学研究所教授に就任し、97年同所長。03年4月から京都産業大理学部教授。京都大名誉教授。京都市在住。

 小林誠氏(こばやし・まこと) 1944年、名古屋市生まれ。愛知県立明和高校から名古屋大理学部に進学。大学院で坂田研究室に入り、素粒子論を学んだ。72年京大助手となり、79年に文部省高エネルギー物理学研究所(現高エネルギー加速器研究機構)助教授、85年教授。06年3月に退任し、現在同機構名誉教授、日本学術振興会理事。茨城県つくば市在住。

  ◆   ◆ 

 「小林・益川理論」は73年に両氏の共著論文として発表。この業績で両氏は、79年仁科記念賞、85年学士院賞、米国物理学会J・J・SAKURAI賞、07年欧州物理学会高エネルギー・素粒子物理学賞を共同受賞。01年にともに文化功労者。

posted by 夢見るまま at 02:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | ノーベル賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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